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受け取って、未来へ手渡す思考の跳躍【書評 梅棹忠夫「知的生産の技術」】

1.読んだきっかけ

 

今こそ読みたい梅棹忠夫 | シゴタノ!

 
 初めて梅棹忠夫の名前を知ったのが上記の記事で、「その時代では評価しきれない、思考の飛躍力」という紹介文がずっと心に引っかかっていた。
 
 それから4ヶ月後、21世紀の知的生産の技術 - コミュニティ - Google+に参加したのをきっかけに、ようやく「知的生産の技術」を図書館で借りた。
 
 地元の図書館にあったのは1982年発行の第34版で、それでも閉架書庫から出されてきたものだった。初版の発行は1969年である。
知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 

 

 

 

2.未来を予言している本?

 読み始めて驚いたのは、そんな45年前の書籍でありながら、現代(2010年代)の情報氾濫社会の出現を、前提としているかのような表現があることだ。
 
 社会には、大量の情報があふれている。社会はまた、すべての人間が情報の生産者であることを期待し、それを前提としてくみたてられていく。ひとびとは、情報をえて、整理し、かんがえ、結論をだし、他の個人にそれを伝達し、行動する。それは、程度の差こそあれ、みんながやらなければならないことだ。今日においては、家庭の主婦さえもが、日常の生活のなかで、知的生産をたえずおこなわなければならないのである。それでなければ、家庭の経営も、子どもの教育もできないのである。
 
(中略)資料をさがす。本をよむ。整理をする。ファイルをつくる。かんがえる。発想を定着させる。それを発展させる。記録をつける。報告をかく。これらの知的作業は、むかしなら、ほんの少数の、学者が文筆業者の仕事だった。いまでは、だれでもが、そういう仕事をしなければならない機会を無数にもっている。生活の技術として、知的生産の技術をかんがえなければならない理由が、このへんにあるのである。
梅棹忠夫「知的生産の技術」はじめに p.12~13抜粋)

 

 
 もちろん著者は、1969年当時の状況について述べているに過ぎないのだが、この文章から、TwitterEvernoteタスク管理ブログなどを連想してしまうのは私だけだろうか。
 
 さらに読み進めていくと、本書のなかの全ての章立てについて、それぞれに現代のデジタルツールやタスク管理手法と関連付けして読むことができた。多少無理がある箇所もあるが、以下にそれを列挙する。
 
 
 
1.発見の手帳 → タスク管理手法GTD(Getting Things Done)等に見られる「In-box」手法
 
2.ノートからカードへ 〜 4.きりぬきと規格化 → 端末からのEvernote入力、参照 「わすれるためにかく」
 
5.整理と事務 → GTDのファイリングシステムそのもの
 
 ※「机は、両そでに、ファイル・キャビネットまたはカード・ケースをおいて、その上に天板をのせるというのが、容器を兼用できるので、いちばんスペースをとらない(p.93)」という記述がGTDの提唱者デビッド・アレンの「オフィス」についての紹介とほぼ一致するのを発見して息をのんだ。どちらもアメリカ発のアイデアであることに関連があるのか。
 
※「秩序と静けさ」≒GTDの「水の心」にも注目したい
 
6.読書 読書カード → Evernote読書メーターブクログなど、書評ブログも関連する。
 
7.ペンからタイプライターへ → 日本語入力システム これについてはちょっと毛並みが違う所感があり、こちらに別記。
 
8.手紙 → eメール、Twitter上でのやりとりなど(あ、これちょっと関連弱いかな)
 
9.日記と記録 → ライフログと定例レビュー「個人文書館(アルキーフ)」
 
10.原稿 〜 11.文章 → ブログの興盛に通じる。印刷技術についての配慮などは、現在はCSSやUIなどの問題に取って代わられたとも言える
 
 
 しかしこれらは「梅棹忠夫氏が未来を予言した!」ということではなくて、いずれの知的生産に関する記述も、「人間が行うもの」であるという原則をおさえていることによるものだと考えることができる。
 
 そのため、こんなにデジタルツールが発達した現代の状況や手法においても、その根幹に通じるものがあり、連想も応用もすることができるのだ・・・おっ、きれいにまとまった。
 

4本当にそうか?

 
しかし、でも・・・本当にそうだろうか。例えばこの「知的生産の技術」に書かれたことは、2010年代からさらに未来についても応用できるだろうか?
 
例えば、メガネや指輪の型をした情報端末や、脳内の映像を外部に取り出す技術の実用化、果てには頭にチップを埋め込んで情報をシェアするだとか、3Dプリンタによる内蔵のプリントだとか、泡の形をした宇宙が実はたくさんあって我々がいるのはそのうちの一つだとか・・・
 
 これから未来の技術と情報の発展(暴走?)に、これらの記述は永久的に通用するのか、つまり「知的生産の技術」に、さらなる未来へ届く跳躍力があると言えるのだろうか?・・・さすがにある段階で限界が来るのだろう。
 
 それでは、本書はそこまでの価値しかないといえるのか?
 

5.受け取って、手渡す

 
 そうではない。そこから先において必要になるのが、例えば本書で言われる「知的生産技術の体系化」なのだ。
 
 言うまでもないことかもしれないが、本書は梅棹忠夫の「時代を超えた跳躍」の着地点の一つである。「本書は問題提起にすぎない」と梅棹忠夫が言う様に、現代のツールと関連付けも可能な記述がされた知的生産の技術を、現代の我々が体系化させ発展させていくことで、さらなる未来へ向かって新たな跳躍を生み出す必要があるのだ。
 
(そして同時に、これは梅棹忠夫が古代の天才レオナルド・ダ・ヴィンチらから、受け取ったいくつかのものを、さらに未来へ手渡そうとする運動でもある。)
 
 その跳躍を生み出せることができれば、それこそが現代における知的生産の最たるものになるのではなかろうか。
 
 
 
 
 
 
 
(最後までお読み頂きありがとうございました。興味のある方には、こちらの記事もおすすめです。)
 


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