読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

dechi

fictions

読むたびに姿を変える【書評 倉下忠憲「真ん中の歩き方」】

書評

 

真ん中の歩き方: R-style selection

真ん中の歩き方: R-style selection

 

 今年から、タスク管理についての情報を集めていたところ、シゴタノ!経由でEvernoteを初めとする知的生産について書かれたブログ「R-style」 にたどり着きました。


R-style

  思慮に富んだ記事が、時にマニアックで大変面白く、さっそくTwitterで著者の倉下さんをフォローして、8月下旬にはメルマガの定期購読も開始。 

 

 その翌週に同ブログから過去の記事を厳選した電子書籍「真ん中の歩き方」が出版されたとの知らせが。 

 

 無料で読めるブログを、改めて電子書籍にする事についても興味があり、発売後すぐ購入、そのまますぐ読み始めました。

 このサイクルの速さも電子書籍の特徴だなあと思いつつ、翌日には1回目の読了となりました。以下に感想を綴っていきたいと思います。

 


1巡目(リズムと型)

 最初は一気に読み切ってしまいました。 

一番強く残った印象は「章ごとにリズムが違って面白い」ということ。

本書には直接的に問題が提示されたものもあれば、抽象的に示唆されているだけものもあります。メタファーを使いすぎて、問題の本質が見えにくいものもあるかもしれません。突飛すぎて、理解を超えているものもあるでしょう」

と、「はじめに 真ん中の歩き方」にあるように、思考の階層、その色合いが、次々に切り替わっていきます。

 


 それぞれの章が固有のリズムを持っており、そこに呼吸を合わせて読み進めるうちに、自然と自分の考えや経験が頭をよぎります。

 「考えるための本」であると同時に、「考えを呼び起こす本」でもありました。

 


 そして、そのリズムを生み出しているのは、著者である倉下さんが持っている、思考の「型」ではないか?とも感じました。当時の私の日記に

 

工場の機械装置や農業機具の展示会に来たような、何かを生み出すための何かを見た、見たというよりも、その気配や片鱗を感じたというような奥行きのある文章だった。

 とあります。(何だか偉そうな文章ですが、ご容赦ください…)

 

 

メルマガの質問

 1巡目読了の翌日、倉下さんのメルマガが届きました。そこにはこんな質問が。 

Q.感動していつまでも覚えている本というのはありますか。感動していつまでも覚えているブログ記事はどうでしょうか。

 

 この質問で、私は当初興味を持っていた「ブログを書籍にすることの意味」ひいては「ブログと本の違い」について思案することになりました。

 

2巡目(ブログの動と書籍の静)

 ブログと本の違いは何だろう?もちろん形式は違うのですが、そこから更にどんな差異が広がるだろうと考え始めた時、格好の資料がある!ということで「真ん中の歩き方」を再読。

 

 例えば「あなたの無理はどこから?」という章は、自分もブログの記事として読んだ内容だったのですが、その印象はブログのそれとは違いました。形態や段組みのような「手触り」ではなくて、もっと「態度」に近いような・・・

 

 結局、これについては結論が出ませんでした。その代わりに、2巡目に書いた自分の読書メモを転載します。

本は佇み、ブログは先へ歩いて行く?両者が手を振ると「ここだよ」と「さよなら(お先に)」の違いがある。

あるいは、(これは良い例えではない?)本は亡き人について語り合う通夜を連想させる。

本は顔写真、顔でもある。僕らが思い出す時の顔、あいつがどんなやつで、どんなエピソードがあったかを大らかに語らうことができる顔。だから「感動した本は?」と訊かれてすぐ思い浮かべることができる。

ブログは会いに行けるが、あちこちにいって留守かもしれない。

 

 今思えば、「動的」「静的」ということを言いたかったのかもしれません。

 

3巡目(自分の意見が生まれる)

 しかし上記の2巡目の読書では、あまりに内容よりも、その形態について意識が向き過ぎていました。

 

 ちょうど同時期に読んでいた梅棹忠夫の「知的生産の技術」には「読書」の章に、こうあります。

わたしの場合、ふりかえってみると、本に線をいれる個所にはあきらかにふたつの系列がある、ということである。第一の系列は、「だいじなところ」であり、第二の系列は、「おもしろいところ」である。
 「だいじなところ」というのは、その本を理解するうえで、カギになるようなところか、あるいは、著者のかんがえがはっきりあらわれているところなどである。それはいわば、「その本にとって」だいじなところなのである。
(中略)

ところが、じっさいには、その書物の本筋とはほとんど関係ないような、場合によっては著者が気がつかずにかいているようなことがらで、非常におもしろくおもって、傍線をいれている場合がすくなくないのである。これが、「おもしろいところ」であって、そのおもしろさはまさに、「わたしにとって」のおもしろさである。

(p.111~p.112 梅棹忠夫「知的生産の技術」6読書 本は二重によむ)

 

 わたしの読書はこの後者に偏っていたと気づきました。そこで、背筋を伸ばして再々読。


 2巡目までは自分一人で勝手に舞い上がっていたのか、内容を十分に理解出来ていなかった部分もちらほら。

 

 落ち着いて読めば、現在取り組んでいる100日チャレンジや、ブログを初めとする文章の作り方、日々の出来事に対する心構えについて、最初の読書よりも、ずっと自分と結び付けて考えることができました。


 そして、面白いのは「ここはちょっと違うな」「多分これは前提に自分とズレがある」と自分の意見が生まれ始めたことでした。これは著者である倉下さんの考え、いわば「だいじなところ」を前回より捉えることができたから、かもしれません。

4巡目(聴いてみる)

 ここまできて、既に私としては最高に楽しい読書体験だったのですが、こうも良い意味で読むたびに印象が変わると、どうもうまく書評がまとまりません。

 

 そんなことで自分で宣言した締め切りを超えてしまっていたところ「楽しみです!(プレッシャー)」というご本人からのツイートもあり、書評を作ることを意識しつつ、いざ4回目の挑戦。


 一度最後まで読んでから、今度はiphoneのVoiceOver機能を使って聴いてみました。


 自分の目の動きとは違う制約とスピードの中で、例えば「1に満たないものを繰り返し足していく」の章では合成音声が「れーてんれーれーれーれー・・・」と繰り返していく様子が、かえって文章の言わんとしていることに結びついてる感じがしたり、

 

 ジャックポットのタイムラグ」の章では、コインゲームの仕組みについての説明文が、やはり音声で聴いても分かりやすいということに改めて気付いたりと、電子書籍ならではの楽しみ方ができました。

 

 ここまで読んで、ようやく「読むたびに印象が変わる」こと自体を書評の軸にしようと決心し、この文章を書くに至っています。

 

5+n巡目(おわりに)

 「真ん中の歩き方」は、電子書籍として常に持ち歩けるということもあり、文庫本の小さな詩集を思わせます。

  ことある毎に読み返して、自分がどう感じるかを観察する「考えるための本」、そのものが変化していないのに、こちらの意味や解釈が変わるということは、まさしく自分が変化しているということであり、それを定点観察できる本というのは希少なのではないでしょうか。(そしてこの変化についても、「真ん中の歩き方」で言及されているという・・・!) 
 
 
 
 以上が私の読み方、解釈の変遷です。今後もきっと変化していくでしょうし、変化しない部分も、またあると思います。
 
 
 そんな思考の変化・不変化をみなさまにも楽しんで頂きたいという思いで、私から「真ん中の歩き方」をおすすめいたします。
 
 ぜひぜひ、どうぞ。

 

真ん中の歩き方: R-style selection

真ん中の歩き方: R-style selection

 

 

 
広告を非表示にする